景観学のすすめ
ヒトと自然の関わりが景観を造る
ヒトは自分のいる地域の自然環境に働きかけ、また環境からの働きかけを受けて生活している。その結果が、その地域の景観になる。ヒトは多くの場合、自分に好ましい景観を頭に描き、景観に働きかけて生きている。その証拠に景観論争がある。明石城では木々の伐採をめぐり、木々を保存したい人々や、維持コストの観点から伐採に賛成する人々らの間で対立があった。景観をどのように評価し、どのように維持するのかについては学問分野がある。兵庫県立淡路景観園芸学校の山本聡教授に景観学とは何か、また何が学問の成果になるのかを訊いてみた。
山本聡
兵庫県立淡路景観園芸学校教授
景観は時代の変化に合わせて徐々に変化する
-景観とは何でしょうか。
山本聡氏(以下、山本) 造園家の涌井史郎氏らが提唱しているのは、景観は10年程度、風景は100年程度、風土は1000年程度を単位にそれぞれが成立するという考え方です。いま私達が生きている景観は、そこに住む人々の活動が反映され、これは10年ほどの時間が経つと目に見えてきます。
それが100年程経つと、風景と呼ばれるその地域のイメージとして定着。風土は気候変動などを含む自然現象と風景変化の積み重ねによって、1000年程経てば変わるでしょう。鎌倉時代や江戸時代の淡路島と今の眺めが違うのは、それぞれの時代の絵を見ると理解できます。
淡路島は北部と南部で地理的条件が異なります。北部は海と山が近く、北淡路の農村の景観は山の斜面に建つ農家や棚田に代表されます。この山と家と海が一望される景観は、見るものに心地よいものを与えます。
一方の南部は、山で囲まれた平野が大部分を占めます。例えば、南あわじ市を訪れると目に入る玉ネギ小屋は、南部景観の重要な要素。玉ネギ小屋は、栽培に適した土質と風乾に適した環境を示す景観を表わしています。こうした淡路の代表的景観が、景観に関する理解を深めさせてくれます。
南あわじ市の沼島には特徴的な美しい石垣があり、地元の石でできています。このように景観には、その地域の材料と密接な関係を持った構造体も大きく関係しています。飛騨高山の茅や木をふんだんに使った合掌づくりは、おそらく淡路の海辺には相応しくないでしょう。このように景観をどのように地域の特徴として捉えるかは、景観学による景観評価の手法や解析が必要になるのです。
-景観の維持をめぐる論争とは何ですか。
山本 ヒトの潜在意識には景観は変化するものであったとしても、急激な変化は望まないといった傾向があるのではないでしょうか。確かに産業の変化で数十年経てば淡路の景観が変化することは、歴史を100年単位で見れば理解できます。この100年で紡績業や電機産業が生まれ、一時は電車が走っていたこともありました。
現在、それらはなく、淡路は観光と農業が主流の土地となり、風景は確実に変わっています。結局、特徴ある地域の景観が徐々に変化することが、生活の糧を含めてそこに住む人々の望むことなのでしょう。景観学にはその景観の要素を人々に示すという重要な役割があり、世界のどの地域にも必要な学問といえます。
ところで、景観の変化はヒトの働きかけだけで起きるわけではありません。淡路の里山による美しい景観は、竹林の際限のない増殖のためにかなり壊されています。また、外来種の植物の繁殖も景観の破壊に影響しています。景観学の実践として、こうした自然の変化を発見し、これらに対処することも重要な課題のひとつです。
さらに耕作放棄地は景観の破壊に直結します。あるべき景観をどのように維持し、住みよい地域をつくるかは大きな社会課題です。農業や観光の振興などで解消できることを考えると、パソナ農援隊の活動は非常に有意義であると期待しています。